ツカサ工場跡地

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全ての狂える子供たちへ。「天気の子」

※ATTENTION※

本記事には映画『天気の子』のネタバレが多く含まれます。

その為閲覧は自己責任でお願いします。

 

2019年7月20日

新海誠監督最新作『天気の子』を観た。
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『天気の子』を観た後、僕は感動のあまり浦和PARCO八階にあるカフェ…には入らず、その隣にあるソファに座って10分程浦和を一望していた。その日の浦和の天気はどんよりとした曇り空だったのだが、僕の心の中は真っ青に晴れ渡っていて、きっと僕は『天気の子』に救われていた。

 

『天気の子』について思考する折、僕はどうしても最後のシーンについて考えてしまう。最後のシーン、陽菜は何に対して祈っていたのか、帆高は何に対して「大丈夫だ。」と言ったのか。

それはきっと人の数だけの解釈があって、人の数だけの答えがあるのだろうけれど、この記事では僕の考えている解釈と答えを、自分の気持ちの整理の為に書き写して置きたいと思う。

 

『天気の子』では、大人の世界と子供の世界が、東京タワーとスカイツリーと言う「大人と子供それぞれの繋がりのシンボル」を使って効果的かつ鮮やかに描き分けられている。

物語の序盤、須賀に食事を奢らされた後帆高が船から東京を一望するシーンでは東京タワーがそびえている。これは家出をした帆高が東京と言う「大人の世界」に来たのだと言う事を表している様にも見える。

帆高が須賀の事務所で働き始め、陽菜との劇的な出会いを果たすと、今度はスカイツリーが出現するカットが多く出て来る様になる。これは東京と言う「大人の世界」において、帆高と言う子供に居場所が出来たと言う事を諮詢しているのだろう。帆高が始めて陽菜の家に行った時に夜の東京(陽菜の家の真横で電車が走っているカット)でスカイツリーが煌々と輝いていたのは、子供同士の繋がりや営みが祝福されている様で何だか嬉しかった。

帆高と陽菜が須賀の依頼を引き受け娘の為に天気を晴れにするシーンでは東京タワーが描写される事になる。帆高や陽菜から見れば須賀はやはり「大人側の人間」で、帆高と陽菜はそんな大人の世界、家族と言う繋がりを持つ須賀の大人(親)としての一面に触れる事になる。

『天気の子』において最も効果的に東京タワーとスカイツリーが描写されるシーンは、帆高が陽菜や凪と一緒に警察、つまりは社会制度から逃げる事を決意するシーンだ。

帆高が島に戻らない事を決意し、「一緒に逃げよう!」と叫んだ後、土砂降りの東京の夜景の中で一際輝きを放つ東京タワーとスカイツリーがかなりの秒数を使って描写される。これは大人の世界と子供の世界の対立構造の直喩であり、帆高と陽菜と凪が東京と言う「大人の世界」その物に対して反抗する事を諮詢する、『天気の子』のその後の内容においてとても重要なカットとなっている。

 

少し話を変えるが、僕は帆高と陽菜と凪がラブホテルで一夜を過ごすシーンが凄く好きだ。

食事と入浴は限りなく日々の営みに根ざしている行為で、それを社会から追われバラバラにされかかっている子供たちが共有しているのは、「擬似家族」と言うワードを連想せずにはいられない。

帆高と陽菜と凪は、それぞれが元の家庭で享受していた物を捨てた(無くした)身でありながら3人でラブホテルに泊まり、擬似家族として一晩限りの営みを共有していた。それはどんなに切実で幸せな営みだっただろうか。考えるだけで胸が締め付けられる。

「神様。お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください。」

 

 

その後『天気の子』では、空の彼方へと消えてしまった陽菜にもう一度会う為水浸しになった線路を走る帆高が描かれる。

陽菜にもう一度会う為に有刺鉄線を越え線路を走って行く帆高、そんな帆高に向かって叫ぶのは、須賀の姪である夏美だ。

「帆高ー!走れー!!」

ああそうか、『君の名は』を通過した新海誠はついにここまで…。

電車や線路は、しばしばアニメーションにおいて「人生の運行、またはその速度」といった物を演出する際に描かれる事が多い。

例えばそれは『未来のミライ』に出てくる未来の東京駅であったり、『秒速5センチメートル』の大雪のせいで電車が遅延するシーンであったり、新海誠監督の前作『君の名は』においても、三葉が瀧と初対面を果たすのはやはり電車の中で、3年後の彼等が再開する時は2人が別々の行き先の電車に乗っており、窓越しに互いの顔を見てハッとする…と言う形で再開に繋がる瞬間が描かれている。

そんな中において、『天気の子』に出てくる線路は雨水に浸ってしまっている部分もあって、大人がそのメンテナンスをしている。電車はもはや、機能していない。

それでも帆高は走って陽菜に会いにいく。そしてまた、帆高に対して大人が放つ言葉は静止の促しであったり、蔑みのこもった言葉ばかりなのだ。

しかしそれでも帆高は立ち止まらなかった。線路が雨水に沈み、大人に静止の促しをされ、疎まれ、蔑まれ、自分の選択が狂っている物だったとしても、それでも責任を負う覚悟を決めた子供は走り続ける事が出来る。

 

最終的に陽菜の降らせた雨水は、線路だけではなく東京その物を沈めてしまう。水浸しになった東京の全景に東京タワーは存在しておらず、スカイツリーだけが天に向かってそびえ立っている。

これからは、あるいはもう既に、東京はスカイツリーの時代だ。

 

 

『天気の子』ラストシーン、東京が雨水に沈んでしまっても、人々は地に足をつけて生活を営んでいた。それでもそんな世界で陽菜は何かに対して祈っており、帆高はそんな陽菜に対して「大丈夫だ。」と言った。

須賀は帆高に対して「世界なんて元から狂っている。」と言った。だから、思い上がるな…と。

それはきっと、世界を変えてしまった責任を子供に負わせない為の、須賀なりの"大人の対応”だったのだろう。

しかし帆高は、明確に、はっきりと、須賀のそれを「違う!」と否定した。それでも僕たちは世界の形を変えたんだ、それでも僕たちは、この世界で生きる事を選んだんだ。

新海「僕が描きたいのは、いつも個人の願いの物語です。個人の願いというのは、しばしば学校や社会的にあるべき姿と言うものと相反するわけですが、そんなところから、社会から逸脱していく少年、少女を描きたいという思いにつながっていきました。主人公の帆高というのは、物語のなかで、いろいろな大人に行動を止められます。何度も肩をたたかれて、「何してるの?」と問われる。そのたびに、彼は大人が指したものとは違う方向に進んでいくわけですが、それを描いていて僕はとても気持ちよかったし、応援したくなった。」

(月刊ニュータイプ8月号 『天気の子』特集 新海誠のインタビューより抜粋)

 

「今の子供たちは可哀想、昔の天気は良かった。」と大人は言うが、それでも帆高は雲間から射す太陽の光に笑顔を見せていた。「人柱一人が消えれば天気が良くなるなら、きっと皆その方が良いだろ。」と大人は言うが、それでも帆高は陽菜の手を掴み、そして離さなかった。あの日陽菜と一緒に空から落ちた帆高は、全ての大人の"ぼやき”に対して明確なアンサーを出した。

「もういい!もう二度と晴れなくたっていい!天気よりも、俺は陽菜がいい!天気なんて狂ったままでいいんだ!」

 

 

『天気の子』は、子供が世界に対して祈る事でストーリーが進んで行く。

どうかこの天気が晴れますように、どうかこの人とずっと一緒にいられますように。どうかあの人にもう一度会えますように。

だが、最後の「僕達はきっと、大丈夫だ。」は祈りでは無い。世界へ向けた、生きていく事に対しての宣言だ。

アニメーションにおいて天気とはキャラクターの心情や未来の模様を写す舞台装置だ。しかし、『天気の子』の世界では根本的に天気が狂っている。そんな狂った世界の中心で、降り続ける雨の中、それでも帆高は僕たちはきっと大丈夫だと言った。

だからきっと、『天気の子』は世界に対する子供たちの祈りの物語で、子供たちが狂った人生のその先を、それでもこの世界で生きていく事を選択する決断の物語なんだと思う。

 

全ての子供たちが、その狂える人生に希望を抱きながら生きていけます様に。『天気の子』は、思わずそんな事を世界に祈ってしまいたくなる様な、爽やかで清々しい映画だった。

だから、僕たちはきっと、大丈夫なのだ。

 

 

新海「帆高も陽菜も、作中でいろいろな事情で追い詰められていきます。しかし10代ならではというか、怖いとは思いつつもどこまでも走り続けてしまう。大人だと慎重に立ち止まるような局面でも、彼らは止まらない。とにかく次の場所に行きたいんだ、と言う強い気持ちを抱えている子たちです。

今、そういう子たちの姿を見たいと思いますし、みんなが見たいのは、こういう子たちの姿じゃないかなと言う気もしています。」

(日経エンタテイメント!2019年8月号 全解剖『天気の子』新海誠「次なる挑戦」 新海誠へのインタビューより抜粋)

 

最後のシーンの陽菜は、きっとこんな事を祈っていたのではないかと思う。

「Weathering With You.」

 

 

大丈夫 (Movie edit)

大丈夫 (Movie edit)